【奇跡の子】
「先輩、水飲みます?」
「・・・・・・飲む・・・」
ぐったりと動けない様子の先輩に、冷蔵庫から出してきたミネラルウォーターのペットボトルを差し出す。
俺としては随分やさしくしたつもりなんですけどね。
先輩はゆっくりと上体を起こし、汗で顔に張り付く前髪をかきあげながら受け取った。
いろいろな水分で湿ったベッドに腰掛け、サイドボードに置いていた煙草を1本取って火をつける。
ふう、と紫煙を吐き出し、俺は先日から少々疑問だったことを口にしてみた。
「先輩、マカの他には子どもいないんですか?」
口に含んでいた水を盛大に吹きこぼされた。ああもう、何やってるんですか。
げほげほと咽る背中をゆっくりとさすってやる。
「大丈夫?」
「突然何てこと言いやがる!」
口と鼻から水を滴らせ目に涙を浮かべた先輩が、真っ赤な顔で抗議する。
そんなに怒ることですか?
そういう結果になる行為が大好きなくせに。
「だって先輩は迂闊だから、もしかしたら失敗したこともあるんじゃないかなって。でも絶対あんたは堕ろせなんて言わないでしょ」
「お前どんだけ俺のこと悪い男だと思ってんだ」
「俺を捨ててあの女と結婚しても、女癖の悪さは変わらなかったじゃないですか」
「変な言い方すんな。男が女を好きで何が悪い。大体元かみさん以外を孕ませた覚えはねえし、認知を迫られたこともねぇよ。これでも相手と方法を考えて楽しくやってんだ」
「楽しく、ねぇ」
灰皿を引き寄せて灰を落とす。
あんたは楽しくやってるつもりなんでしょうけど、他はそう思わないから自分で困ってるんじゃないんですか。
「先輩には言わなかっただけで、こっそり処分されてたかも」
俺の言葉に、眉根を寄せて表情を曇らせる。
ああ、ちょっとキツかったかな。
本当にあんたは昔と変わらない。
優しくて愚かだから、そんなことになってたらと考えるだけで胸が痛くなるんだろうね。
後から気にするなら、不特定多数とそんなことしなければいいのに。
「哀しいこと言うな。お前と組んでた時だって、そんな相手を傷つけるような真似はしてなかっただろ。俺の子どもはマカだけだ」
「ふうん。俺は先輩に見放されてすごく傷つきましたけどね」
ヘラヘラと笑いながら煙草を揉み消す。
今すごく心が痛んだでしょう。そういう言い方を選んでしましたからね。
今にも泣きそうな顔をしないで。もっといじめたくなる。
自分が嗜虐趣味の被害者になるのは平気でも、加害者になるのは耐えられないんだね。
武器のくせにどんな形でも他者を傷つけることに負い目を感じて、本能との板挟みに苦しんでたあの頃と変わらない。
「おまえがそれ言うか? 勝手にひとの身体開いて傷だらけにしやがったくせに」
「俺は自分でやったことはちゃんと責任とりますよ。だから先輩とのパートナー解消も受け入れたんです。それに先輩には手術痕が残るようなヘマはしてません」
ついと顎をとり、赤い髪に隠された首筋に顔を寄せる。
煙草に燻された苦い吐息がかかると、印の散らされた白い肩が震えた。
たった今、あんたをいじめる言葉を吐いたのにね。
耳に口唇が触れるか触れないかの微妙な位置で囁く。
「今から消えないような傷作ってもいいですか?」
「いいわけねぇだろバカ」
「じゃあ我慢して、すぐ消えるのにしといてあげます」
「まだやる気かよ」
「全然足りてませんよ」
傷つけられても、傷つけた当人の人肌で機嫌を直すくせに。
「せいぜい気をつけてくださいね。弟妹なんてできたら、確実にマカに絶縁されますよ」
ねえ先輩、あんた頭が悪いにも程があるよ。
先輩みたいに特別な地位の人間が、デスシティのそこらじゅうに子種をばら撒いても一度も失敗しないなんてのはおかしいってことくらい、すぐ判ることなんだよ。
あんたが楽しく遊ぼうとどんなに念入りに相手を選んでも、きちんと自分でゴムを用意しても、排卵周期に気を使っても、相手がその気だったら意味はないんだ。
マカという実物が存在する以上、自分も最強の魔武器デスサイズ様の子どもを産んでみたいと考える浅はかな女がいてもおかしくない。
それなのに、妊娠を告げられたことすら一度もないことに疑問を持たないんですか。
傷つく女性がいないのは喜ばしいことだとでも思ってるんですか。
先輩と臨時パートナーを組むことになり関係を持つようになってすぐに、俺は先輩の体組織を調べた。
だってあんたの今を知りたかったから。
本当は中を開いてみたいけど今度やったらさすがに許されないだろうから、ごく簡単な体液と組織の臨床検査だけにしたんですよ。
我慢することを覚えた俺を褒めて欲しいくらいだ。
表皮、毛髪、血液、唾液と口内の粘膜、胃液と胃の粘膜、腸管の粘膜、尿、そして精液。
年齢と酒のせいでところどころ悪くなってるけど、その辺は俺が管理してあげますから心配いりません。
でもね、ひとつだけ腑に落ちないことがあるんですよ。
あんたの精液、昔から出しすぎで薄かったけど、それでもちゃんと正常だった。
当時妊娠騒ぎがなかったのは、年齢的にも立場的にも子どもを欲しがる女がいなかったんでしょうね。
今のあんた、子どもができないんですよ。精液の中に精子が含まれていないんです。
病気で減少したという跡はないし、実際にマカがいるのにおかしなことだ。
念のためマカの髪を拝借してDNAを調べさせてもらいましたけど、間違いなく先輩の子でしたよ。
ついでに、興味を惹かれる面白いことも判りました。
殆どのデスサイズスは昇格後、未婚のままその神務を全うして引退するか、任務や何らかの事故で逝去していて、歴代のデスサイズスで子どもを授かっているのは資料が残っている範囲では当代のデスサイズ、つまり先輩しかいないんですよ。
わざわざ魔武器の頂点に立ちながら現役真っ最中に結婚して引退するなんていうマリーのような変わり者もいるにはいましたが、子どもはできなかったんです。
普通の魔武器がデスサイズに昇格する際になんらかの理由---恐らくは100個目にあたる魔女の魂の影響で、人型の肉体に異変が生じて生殖機能を失うとしたら、全て辻褄があう。
先輩の場合は、最後になるかもしれないからというロマンチストな先輩らしい理由で魔女を狩る直前にあの女と性行為をしたのがたまたま受精したに過ぎないのだろう。
マカという存在がデスサイズになる前に作った子なら、現在は子種のない先輩の子でも矛盾は生じない。
しかしこの仮説を検証するには、実際に新しい魔武器を経過観察しながらデスサイズに仕上げたのち全身隈なく調べ上げるという多大な労力と時間を要する。
長命な魔女じゃあるまいし、一介の人間の身には現実的じゃない。
それに研究者としてデスサイズの身体にはとても興味をそそられるけれど、死神様のものに手を出して調べるなんてことはしてはならないという自制ができるだけ、俺は大人になった。
まあ、俺にとっては先輩が不妊になったからってどうということはないし、健康を損なっていないならどうでもいい。
むしろ余計な揉め事を抱え込むかもしれない可能性が減ってくれて有り難いくらいだ。
研究できなくても、もう一度あんたに触れることができるようになっただけで充分だよ。
でもこのことを知ったらきっとあんたは今まで以上に女癖が悪くなるだろうから、教えてやらない。
そんなことより、偶然と奇跡の産物かもしれない希少価値のあるデスサイズの愛娘の担任という面白い仕事に就いた俺としては、次の授業では何を解剖しようかと考える方が有意義だ。
ああそうだ、希少価値繋がりで絶滅危惧種のトキ子さんにしよう。
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パパがあれだけ女癖が悪いと言われているのなら、他に子どもがいてもおかしくないんじゃ?という大変なまぐさくていやんな疑問への回答のひとつ。
まだ出てきていない3人の誰かに子どもがいたら成り立ちませんねw
いや、本人が思ってるほどもててなくて、単にキャバクラ通いが好きなだけって可能性もありますが、それはそれで別のネタにできていいんじゃないかなー。
この場合、一番かわいそうなのは結婚する気満々なデスサイズで女性であるマリーです。
時間軸的にはまだ博士はマカを「あの女が産んだ先輩の娘」くらいの認識です。
マカ個人を見ていれば、もっとマカに優しい視点を持ってくれるはずですから。